京城日報 1943-02-27
Bookreader Item Preview
Share or Embed This Item
- Publication date
- 1943-02-27
- Collection
- kjnp-archive; newspapers; eastasia-periodicals
- Language
- Japanese
- Item Size
- 69.9M
Japanese newspaper published in Korea until 1945. Includes early issues under title 京城新報 and 朝鮮日報
- Addeddate
- 2021-10-03 15:56:53
- Identifier
- kjnp-1943-02-27
- Identifier-ark
- ark:/13960/t8tc3mh9w
- Ocr
- tesseract 5.0.0-beta-20210815
- Ocr_detected_lang
- ja
- Ocr_detected_lang_conf
- 1.0000
- Ocr_detected_script
- Japanese
- Ocr_detected_script_conf
- 1.0000
- Ocr_module_version
- 0.0.13
- Ocr_parameters
- -l jpn
- Page-progression
- rl
- Pdf_module_version
- 0.0.15
- Ppi
- 400
- Scanner
- Internet Archive Python library 2.1.0
comment
Reviews
(1)
Reviewer:
tpjv86b
-
February 24, 2022
Subject: 宇宙の大調和的秩序顕現
Subject: 宇宙の大調和的秩序顕現
国体の本義と道義半島(六)
鎌田沢一郎
宇宙の大調和的秩序顕現
天業扶翼こそ日本臣民の使命
... 前述の如き客観情勢下に於いて日本国民は画然として己れ自身の立つ日本の国土が、如何に尊貴であるかを知るに至った。即ち現に直面している歴史的環境との力闘が次第にその自覚を促し来ったのである。
遠く思いを皇国創業の昔に寄せ、その雄渾なる皇籍と高遠なる大理想とに想到することによって、この激動する現世に生活する日本人としての、新しい希望と不屈の覇気とを湧き上がらせることが出来ることを知るに至った。
ムッソリーニのファッシズムもヒトラーのナチズムも、わが皇道原理の前には著しき後進性を示し且つは又『結束』と『綜合』を示す全体感において、その共通の著しきものあるも、その本質に於いては全く異なり、さらに遥かに広く、遥かに大なるものであることを認識するとともにナチスの如きはむしろ日本を模範として邁進し来ったものであり、ヒトラーもしばしば口にするごとく『日本の国体および日本精神』こそは独逸人にとっても讃仰の対象であり、また『ファッシズムの普遍性』の著者バーンズが『日本こそファッシズムの理想国である』といい、ムッソリーニが日本国家純一性を羨望することに於いても、この事実を裏書きすることが出来ると思う。
彼らの観察することがいずれともあれ、我国は単なる民族的全体国家でも、独裁国家でもない。君民一体の絶対国家であり、血に依って結ばれた親子の道義的並びに生物学的関係が深化洗練せられ、そのままに天皇と臣民との大義名分関係まで崇められ、天皇は大御親として宇宙生命を体現せられ、国民各自の天分素質を完成し、彼らをして皆その質を得せしめんと念願し給う。国民は億兆心を一にして、天皇の遂行し給う天業の経綸を扶翼する。天業とは我国を真の『家族国家』として完成せしむると共に、弱肉強食に悩む各国民を教化誘導し、彼らをして内面的に『世界家族』を建設せしめ、以て宇宙の大調和的秩序を顕現せしめんとするにある。
しかも民主主義の主張する唯一の信条たる『自由』もまたファッシズムの『結束と権威』も、ナチズムの『民族全体主義世界観』も我が皇道の裡にはすべて積極的意義を以て抱合されて居る。即ち皇道に於いては権力と自由とが天皇の御稜威を媒介として完全に統合し、世界に比類なき理想的政治形態を形成し、現人神たる天皇陛下の御稜威に忠を通じて帰一信順して行くとは、完全積極的なる自由である。また現人神と親子の関係に於いて純化統一されたる民族共同体こそは如何なる全体主義にも優るべきと今さら絮説を要せぬところであろう。
神州の自然が、悠久三千年、万邦無比の日本国体を産む母胎であったことは前述した。その大自然の裡にわれらの祖先が営んで来た『生活』を通じても、われらは真の日本精神を明確に認識把握せなければならぬ。即ち世界観こそは人の生活的立場から直接即自の関係に於いて日常的意識であるからであり、その限り世界観もその成立地盤たる生活の存在様式に規定せられざるを得ないからである。即ち民族生活の自己省察、自己認識として構成せらるるものこそ民族世界観の根柢をなすものでならねばならぬ。
総じて人間の生活は、与えられたる自然と歴史の両者によって、その構造が決定されるのである。いうまでもなく自然は人間の生存を可能ならしめる自然的な母胎である。人間はそれに対して持続的なる一定の交渉を保つことによって存続することが出来る。しかるにこの自然的風土的状況は千差万別であることによって、そこに育成される生活の構造的形態にも変化がある。世界観はそれと無関係であり、無影響であることは出来ない。今日特に高調せられていることは、世界観を必然的に制約するものは血と土であるとする所以はそこにある。しかしでゲルマン民族はゲルマン的世界観を、日本民族は日本的世界観を有していることは当然である。特定民族の生活の表現としての世界観はこれを信奉する民族と密接不離の関係に置かれねばならないのである。
ギリシャ的世界観、印度的世界観、支那的世界観など皆夫々特有の趣きを持って居り、その特色はそれぞれの民族たり、人種的な性格を判然と表現し反映して居る。ギリシャ人は主知主義的に、印度人は瞑想的宗教的に、支那人は意志的にして論理的と言われたが、この特有な独自の民族性に応じて一定の世界観が樹立され来ったのである。ギリシャに於いては知的な理論的性格が生み出され、印度に於いては瞑想的な性格を荷ぶ仏教が具体化され、支那に於いては儒教に於いて代表される主意主導的な実践論理としての色彩を帯びたものが示されたのは、即ち自然と民族の紐帯たる生活意欲を基として、民族独特の本質、その空間的規定、その歴史的運命の表現に外ならないからである。
かくして日本的世界観もまた血と土と、歴史とに本質的な連関を示し乍ら、様々な生活面に於いて具体的に表現され来って居る。そしてその生活相の側面に於いて特色ある要求を提出して来た。
鎌田沢一郎
宇宙の大調和的秩序顕現
天業扶翼こそ日本臣民の使命
... 前述の如き客観情勢下に於いて日本国民は画然として己れ自身の立つ日本の国土が、如何に尊貴であるかを知るに至った。即ち現に直面している歴史的環境との力闘が次第にその自覚を促し来ったのである。
遠く思いを皇国創業の昔に寄せ、その雄渾なる皇籍と高遠なる大理想とに想到することによって、この激動する現世に生活する日本人としての、新しい希望と不屈の覇気とを湧き上がらせることが出来ることを知るに至った。
ムッソリーニのファッシズムもヒトラーのナチズムも、わが皇道原理の前には著しき後進性を示し且つは又『結束』と『綜合』を示す全体感において、その共通の著しきものあるも、その本質に於いては全く異なり、さらに遥かに広く、遥かに大なるものであることを認識するとともにナチスの如きはむしろ日本を模範として邁進し来ったものであり、ヒトラーもしばしば口にするごとく『日本の国体および日本精神』こそは独逸人にとっても讃仰の対象であり、また『ファッシズムの普遍性』の著者バーンズが『日本こそファッシズムの理想国である』といい、ムッソリーニが日本国家純一性を羨望することに於いても、この事実を裏書きすることが出来ると思う。
彼らの観察することがいずれともあれ、我国は単なる民族的全体国家でも、独裁国家でもない。君民一体の絶対国家であり、血に依って結ばれた親子の道義的並びに生物学的関係が深化洗練せられ、そのままに天皇と臣民との大義名分関係まで崇められ、天皇は大御親として宇宙生命を体現せられ、国民各自の天分素質を完成し、彼らをして皆その質を得せしめんと念願し給う。国民は億兆心を一にして、天皇の遂行し給う天業の経綸を扶翼する。天業とは我国を真の『家族国家』として完成せしむると共に、弱肉強食に悩む各国民を教化誘導し、彼らをして内面的に『世界家族』を建設せしめ、以て宇宙の大調和的秩序を顕現せしめんとするにある。
しかも民主主義の主張する唯一の信条たる『自由』もまたファッシズムの『結束と権威』も、ナチズムの『民族全体主義世界観』も我が皇道の裡にはすべて積極的意義を以て抱合されて居る。即ち皇道に於いては権力と自由とが天皇の御稜威を媒介として完全に統合し、世界に比類なき理想的政治形態を形成し、現人神たる天皇陛下の御稜威に忠を通じて帰一信順して行くとは、完全積極的なる自由である。また現人神と親子の関係に於いて純化統一されたる民族共同体こそは如何なる全体主義にも優るべきと今さら絮説を要せぬところであろう。
神州の自然が、悠久三千年、万邦無比の日本国体を産む母胎であったことは前述した。その大自然の裡にわれらの祖先が営んで来た『生活』を通じても、われらは真の日本精神を明確に認識把握せなければならぬ。即ち世界観こそは人の生活的立場から直接即自の関係に於いて日常的意識であるからであり、その限り世界観もその成立地盤たる生活の存在様式に規定せられざるを得ないからである。即ち民族生活の自己省察、自己認識として構成せらるるものこそ民族世界観の根柢をなすものでならねばならぬ。
総じて人間の生活は、与えられたる自然と歴史の両者によって、その構造が決定されるのである。いうまでもなく自然は人間の生存を可能ならしめる自然的な母胎である。人間はそれに対して持続的なる一定の交渉を保つことによって存続することが出来る。しかるにこの自然的風土的状況は千差万別であることによって、そこに育成される生活の構造的形態にも変化がある。世界観はそれと無関係であり、無影響であることは出来ない。今日特に高調せられていることは、世界観を必然的に制約するものは血と土であるとする所以はそこにある。しかしでゲルマン民族はゲルマン的世界観を、日本民族は日本的世界観を有していることは当然である。特定民族の生活の表現としての世界観はこれを信奉する民族と密接不離の関係に置かれねばならないのである。
ギリシャ的世界観、印度的世界観、支那的世界観など皆夫々特有の趣きを持って居り、その特色はそれぞれの民族たり、人種的な性格を判然と表現し反映して居る。ギリシャ人は主知主義的に、印度人は瞑想的宗教的に、支那人は意志的にして論理的と言われたが、この特有な独自の民族性に応じて一定の世界観が樹立され来ったのである。ギリシャに於いては知的な理論的性格が生み出され、印度に於いては瞑想的な性格を荷ぶ仏教が具体化され、支那に於いては儒教に於いて代表される主意主導的な実践論理としての色彩を帯びたものが示されたのは、即ち自然と民族の紐帯たる生活意欲を基として、民族独特の本質、その空間的規定、その歴史的運命の表現に外ならないからである。
かくして日本的世界観もまた血と土と、歴史とに本質的な連関を示し乍ら、様々な生活面に於いて具体的に表現され来って居る。そしてその生活相の側面に於いて特色ある要求を提出して来た。
There is 1 review for this item. .
107 Views
DOWNLOAD OPTIONS
Temporarily Unavailable
For users with print-disabilities
Temporarily Unavailable
Uploaded by 石上苔 on